明治十年創業 鳥問屋 加賀屋 初代 越村源二郎が加賀より東京赤坂に移り創業した加賀屋 昭和六年、新橋に本拠を移し、究極の鳥専門問屋にこだわる 『四足の肉は決して扱わない』『冷凍肉は扱わない』 妥協を許さない商いの姿勢が、圧巻の地鶏・銘柄鶏の品ぞろえを生む
加賀屋の実力はそのお得意様が証
洋食、和食、蕎麦、中華 様々なジャンルの名店に鳥(鶏や鴨など)を納める加賀屋
小川軒、玉ひで、サバティーニ、オテル・ド・ミクニ・・それに宮内庁・・・
食にそれほど興味のない方でも、その納入先の名を聞けば、加賀屋の実力がどれほどか?推察できると思います。
全国各地の地鶏・銘柄鶏・鴨や鶉もそろう圧巻の品ぞろえ
東京しゃも、比内地鶏、名古屋コーチン、薩摩しゃも、奥久慈しゃも・・・これだけ多種のこだわり鶏がそろう店は殆どないと言っても過言ではないです。
東京の主な繁華街を配送範囲に納める加賀屋には、多くの料理人から注文が入るだけでなく、多くの同業者からも、地鶏等の注文が入ります。
単に銘柄(血統)だけではなく、生産者ごとの肉質の違いを把握し、それぞれの肉の特徴を伝え、生産者の思いと鳥の価値を伝える力が加賀屋にはあります。
江戸を舞台にした池波正太郎の名作にしばしば登場する『軍鶏鍋』(軍鶏:しゃも)
タイ国(シャム)から、闘鶏用に伝わったと言われる軍鶏は、日本で食される美味な鶏肉のほとんどに、その血統が入っているように、引き締まった肉質ではあるものの、極めて美味な鶏です。
幕末の風俗誌『守貞漫稿(もりさだまんこう)』にもこんな記述があります。
『鴨以下鳥を食すは常のこと也、然れども文化以来京坂はかしわと云う鶏を葱鍋に烹て食す事専也、江戸はしゃもと云う鶏を同製にして之を売る』
京や大阪ではかしわ(黄鶏)を葱と一緒に鍋にして食べるが、江戸は軍鶏を同じようにして食べる という意味です。
喧嘩好きで、粋を重んじる江戸の男たちにとって、闘鶏で勇壮な姿を見せる軍鶏に強い嗜好を持ったのかもしれません。
但し、軍鶏は闘鶏用であるが故に、特にオスは非常に闘争心が強く、同じ場所で2羽飼うことが出来ません。(※強いオスが弱いオスを攻撃する為)
その為、軍鶏の飼育は極めて生産効率が悪く、闘鶏文化なしでは成り立たないのは当然でした。その闘鶏文化が廃れば、当然、軍鶏を飼育する人間も減り、さらに、鳴声の大きな軍鶏は東京近郊の都市化に伴い、飼育場所の確保も難しくなり、いつの間にか、軍鶏は幻の美味鶏と化していきました。
軍鶏復活プロジェクト
昭和40年代に入ると、軍鶏は一般入手困難となっただけでなく、種の保存も危うくなりつつあったことから、『軍鶏復活』を願う声が高まり、昭和46年から旧東京都畜産試験場(現東京都農林総合研究センター)に、東京管内の軍鶏が集められ、研究がスタートしました。
軍鶏は闘争心が強いことを良しとする・・・・
それと全く違って、闘争心の弱い軍鶏の血統を集め、闘争心の弱いオスの軍鶏にロードアイランドレッドのメスをかけ、その子供(メス)にオスの軍鶏をかけることで、味は軍鶏の血を引くものの、有る程度の羽数を同じ場所で飼育できる血統を選抜することに成功しました。
昭和59年 ついに、軍鶏の血筋を75%引く、『東京しゃも』が完成します。
強靭な筋肉が東京しゃもの魅力
東京しゃもの飼育日数は140日。うまみが濃厚なだけでなく、脂肪が少なく、身は締まり、肉汁もほとんどでないほど、緻密な肉質です。
決して、『あ〜柔らかい・・・この肉・・・』という表現にはなりません。しっかりした歯ごたえの『うまい肉』です。ロースト、焼き鳥、鍋、どんな料理でも美味です。フライドチキンにしても、ブロイラーとの違いは圧巻です。