受け継がれてきた神秘の醸し
この地にだけ許された「禁断のグルメ」。
あら与「ふぐの子糠漬け」
猛毒があることで知られている「ふぐの卵巣」を珍味に変える場所があります。
日本で唯一「ふぐの子(=卵巣)」の製造・販売を許されている石川県
その海沿いに位置する白山市美川地区は、霊峰白山の伏流水が湧き出る小さな港町です。
文政13(1830)年創業の「あら与」は、毒を抜いた上で豊かな旨みを醸し出す伝統の製法を守り継ぎ、「ふぐの子糠漬け」を作り続けています。
それは、魚と塩と糠と糀、そして美川の水が三年の月日をかけて醸す神秘の味なのです。
米に合う、日本酒にも合う
塩味と旨みの
絶妙なバランス
糠の中で飴色に発酵した薄皮の中に、無数の卵がギュッと詰まった「ふぐの子糠漬け」。
ふぐの卵巣を塩と糠で2年以上漬け込むことで毒を抜き、旨みを凝縮した珍味です。石川県だけに作ることが許された伝統的な発酵食品なのですが、実は、ふぐの卵巣の毒が抜ける科学的なメカニズムは、いまだにはっきりと解明されていません。ただ、1年の塩漬けを経た卵巣の毒は、10分の1にまで減り、さらに1年以上糠に漬け込むことでほとんど無毒の状態になることが証明されています。
おそらく、命をかけてでも食べたいと切望した祖先の貪欲な味覚のおかげなのでしょう。およそ3年間漬け込まれていたため、今どきの味に逆行するような塩分なのですが、その塩味のなんと複雑で奥深いこと。魚介の旨みに加わった味噌にも似た糠の風味、米糀の発酵が作り出すほのかな甘味。幾重にも重なった味が、ゆっくり塩で締められて良いあんばいに弾力を増した魚卵のプチプチ感で追い打ちをかけます。
あら与の七代目、荒木敏明社長にお勧めの食べ方を聞くと、「子をほぐして熱々ご飯に混ぜ込んでおにぎりにすると、本当においしい。まわりの糠を落として薄く切り、そのままチビチビとつまむと、日本酒がいくらでも進むね」と。糠は米の表皮であり、発酵に使うのは地元白山市・木村屋糀店の米糀。荒木社長の言うとおり米に合うのは間違いありません。米から作る日本酒との相性もいわずもがな。「もちろん、まわりにつている糠もおいしいよ。魚の味が染みこんでいるからね。“糠だけ欲しい”なんて言う人もいうぐらい」という言葉を受けて、試しにひとつまみ食べてみた糠は、極上のごはんの友、でした。
江戸時代から
受け継がれた
「めっこめざらし」の
製造方法
この世界に類を見ない「ふぐの子糠漬け」は、いつ頃から美川で作られるようになったのでしょう。江戸時代の藩士の日記には「ふぐのすじを食う」と綴られています。また、加賀藩の屋敷からふぐの骨も見つかったそうです。荒木社長によると「北前船で佐渡から伝わったのではないかなぁ。佐渡でふぐの卵巣を糠に漬けたとか、安政五年には、美川に『鰒(ふぐ)の子をおろした』という記述があるんですよ」。とはいうものの、その詳しい製法が書かれた文献は残っていないそうです。なので、作り方については、代々受け継がれてきたもの。しかし、驚くことに一子相伝ではありません。
「作り方?めっこめざらしや」と笑う荒木社長。「めっこめざらし」とは、石川県の方言で「何も隠すことがない、あからさま」という意味。製造現場は誰が来ても見学可能、作り方も包み隠さず全部教えてくれました。
使うのは、石川県が漁獲高日本一を誇るごまふぐ。良質な卵を持つ5月ごろの漁で揚がったものを目利きして仕入れます。
ふぐのほかにもうひとつ欠かせないものが、いわしです。新鮮ないわしを塩漬けにして1ヶ月。あがってきたエキスの不純物を取り除き、湧き水で作った塩水を加えて塩分濃度を調整。自家製魚醤のできあがりです。これは、味を付けるためのさし汁になります。
ふぐの卵巣は30%の塩で1年間塩漬けに。ここで9割方の毒が抜け、子がギュッと締まっていきます。
1年経ったらいよいよ糠漬け。一斗樽の底に米ぬかを敷き、塩漬けしたふぐの子、米ぬか、米糀…と幾層にも重ねて、縁のまわりに藁で編んだ縄「ひいわ」をぐるりと押し込んだら蓋をし、重石をのせて準備完了。あとは、時間と微生物に任せるのですが、悪さをする微生物が入るのを防ぐため、世話も必要です。樽の縁の「ひいわ」が乾かないよう、いわしで作った自家製魚醤をさし汁にして注ぎ、空気を遮断するのです。
「春と秋は糠が水分を吸うので、毎朝なみなみと注がんならん。だから、魚醤は切らすわけにはいかんのです。この仕事は、魚醤作りが肝かもしれんね」と、荒木社長。ひとつひとつの樽の様子を見ながら、じょうろを手に、荒木社長は魚醤を注いでいました。
糠に漬け込んで2年ほど経たふぐの子が眠る倉庫は、赤い粉をふいた樽が並んでいます。この粉は、魚醤がふぐの子を抱いた糠を通り抜け、樽の隙間から染み出し結晶化したもの。複雑な旨みを蓄えた塩のかたまりです。惜しげもなく魚醤を注ぐからこその、赤い塩。この塩の味は、あら与の糠漬けの風味の複雑さを物語っています。
美川だからだからこそ
守り継ぐことができた味
石川県だけに許された、この神秘の味「ふぐの子の加工」。実は、この伝統食には危機がありました。昭和50年、ふぐの内臓をすべて破棄することが法律で決まったのです。これに異を唱えたのが、あら与の先代社長でした。美川で続く伝統の食を守ろうと、美川の同業者と共に闘い、「江戸時代から続くこの地域の伝統産業であること」「一度も事故がないこと」が認められ、昭和58年、石川県のみ製造が許されることになったのです。
とはいうものの、ふぐの解毒のメカニズムは、現代でも解明されていない不思議なもの。「科学で解明されていない以上、昔ながらの作り方をするのは、安全で安心なものを作るための方法でもあるんですよ」と荒木社長は話してくれました。
美川は、小さな漁町です。霊峰白山に降り積もった雪が山水となり、手取川から海に流れ込む最終地にあり、まちのいたるところに、「ほんぬき」と呼ばれる白山の伏流水が湧き出ている場所があります。あら与の工場の入口にもある湧き水は、地下50メートルから滔滔と湧き出る超軟水。漬け込み作業にはすべて、この水が使われています。
一方山手に向かうと、広々と水田が広がっているのも美川の風景。米ぬかも、米糀も、「ひいわ」を作る藁も、稲作あってのものです。新鮮な魚と清らかな水、そして米作りが盛んなこの美川だからこそ、ふぐの子糠漬けが途絶えることなく受け継がれてきたに違いありません。
(コラム)
毒を消すと伝わる昔ながらの方法を厳守するだけではなく、ふぐの子糠漬けは予防医学学会の毒性検査が義務づけられています。食品衛生法で人体に無害だと定められている基準値、10
MU/100g以下でなければ、出荷できません。製品には、すべて検査証のシールが貼られています。ちなみにあら与の製品は、5 MU/100g未満と、基準値をさらに下回っています。
文・つぐまたかこ
撮影・品野塁