究極の循環型農林業
横林原木椎茸
愛媛県 西予市 野村町 横林地区
10年〜20年もの長い時間をかける 焼かない焼畑
先祖代々受け継がれてきた
四国山地の雑木林と杉林に
朝霧湖と命名された
野村ダム(1978年竣工)のダム湖と
盆地特有の気候が、
深い川霧をしばしば発生させ
標高400m前後の山の積雪とともに、
原木に水分を供給する
若い専業農家が高齢農家を助け
1950年代の燃料革命で衰退した林業は
原木椎茸栽培を軸に、
持続可能な農林業となる道が見えた
肱川と黒瀬川の合流地点
横林は原木椎茸の畑と
肥料の宝庫
愛媛県西予市野村町横林地区には、クヌギやナラの雑木林が広がり、杉林も点在する。クヌギは樹齢10年〜20年の太さ10㎝〜20㎝が、椎茸のホダ木として適しているから、10年〜20年のサイクルで伐採し、5年ほど原木椎茸を収穫し、ボロボロになったホダ木は土に還す。
原木を伏せ込む場所は、間伐された薄暗い杉林が適しているから、雑木林と杉林が隣接する横林地区は、原木椎茸の天国みたいな場所だ。
原木椎茸栽培のために手入れされた杉林は、杉材の伐採にも適しているから、林業としてもプラスとなる。
川霧と雪が灌漑
冬の空気が椎茸を肉厚にする
椎茸は菌株による差は多少あるが、積算温度5,200度で収穫時期となる。
暖かければ、椎茸は肉厚にならず、あっという間に傘が開く。
横林の冬は寒く、椎茸は横に広がらず、肉厚に育つ。最低気温が12度から13度で発生する菌種を選び、原木を伏せる場所の地形や標高で作業時期をずらし、生産性を高める。
冬場、四国の山は乾燥するが、横林は積雪と深い朝霧のおかげで、適度な湿り気が原木に維持される。それでも乾燥は防げないため、椎茸は手作業でビニールのカッパが着せられる。乾燥は椎茸にとって大敵だ。
10年20年単位の
焼かない焼き畑農法
横林の原木椎茸栽培
縄文時代に起源を遡る日本の焼畑農法は、小規模な面積を焼き、1年目に蕎麦、2年目に粟や稗、3年目に小豆、4年目に大豆を栽培し、その後は30年ほど山を休ませ森林力を復活させる。焼畑には、山を持続的に畑として利用可能とする、先人たちの知恵が詰まっている。
穀物を作ることはないが、伐採した雑木林は10年20年で雑木林に戻り、クヌギやナラの椎茸ホダ木以外の山桜などは、滑子や木耳の栽培に利用している。5年ほど椎茸を育てた原木は、カブトムシやクワガタなどの餌となり、その後、山の土に還る。
紅葉が始まる頃、葉がついた雑木林を伐採する。冬を越える前に、木には栄養分が蓄えられ、樹皮も剥がれにくい。葉から水分が飛ぶことで、樹木の枯れ死を早め、椎茸菌が好む状態に早く仕上がる。ホダ木に利用されない草木は、時間をかけて山の栄養となる。
焼くことはないから、穀物は作れないが、立派な循環型のエコシステムが横林の原木椎茸栽培だ。
1950年代の燃料革命で衰退した林業。その後、原木椎茸栽培が地域産業として発展したが、重労働が故に高齢化のダメージが大きく、中山間部の著しい人口減少もあり、原木椎茸栽培は衰退の道を辿ることになった。横林も例外ではない。
約30年前は約10トンだった生産量が約3トンまでに減少し、産業として存続の岐路に立たされている。
横林原木椎茸の救世主!
高橋征敏さん
森林組合の職員などを経て、原木椎茸の専業農家となった高橋征敏さんは八面六臂の活躍をする凄い男。高齢農家がホダ木の伐採と輸送などが出来ないとなれば、代わりに伐採し、ホダ木を供給している。杉林の所有者が高齢化や相続で管理できないとなると、間伐も含め管理を請け、原木椎茸の伏せ込みの場所として再生させる。
自ら重機を操り、山を再生可能な椎茸と杉の製造場所として蘇らせ、高齢農家のフィジカルが衰えても、出来る作業にだけ特化できるようにサポートし、高齢農家の戦力維持の手助けをする。高橋征敏はまさに、横林原木椎茸の救世主だ。
ひとりで35,000本ものホダ木を持つ人でもある。1本40キロと考えれば、総重量は1,400トン!大きなアフリカゾウのオスは7トン。高橋は巨大な象200頭分のホダ木を操る男。まさに異次元のパワーの持ち主でもある。
横林原木椎茸のトップブランド
霧源
大きなものは直径8センチ、厚さ3センチにもなる横林の原木椎茸。
特に冬の肉厚な椎茸は食感も香も味も良い。形の整った傷のない最高等級の椎茸には
野村ダムが堰き止めて生まれた朝霧湖は
霧だけでなく南予用水も生む
ダムの水は 『北は佐田岬、南は宇和島市』 まで運ばれ、特に柑橘類の果樹園にとって欠かせない存在。四国山地の雨や雪が原木椎茸も柑橘も育てる。
日本の山と森林は凄い。
長い年月を費やして構築された、愛媛の柑橘畑もダムも用水路も、何もかも真面目な愛媛人が成し遂げた偉業とも言える。我々は先人たちに負けてはいられない。
(株)食文化 代表 萩原章史