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明治七大品種から
二大品種時代へ『紅玉』の全盛期
1804年は日本の文化元年、1826年は文政18年、日本人が髷を結っていた時代に生まれたリンゴです。
日本には1871年に導入され、青森県内では1890年代には、広く栽培されるようになっていました。
その頃は、各産地で和名をJonathan(米国の品種名)とつけ、青森県内でも千成(津軽地方)とか満紅(県南地方)と呼んでいましたが、1900年に紅玉という名称に統一。
紅玉・国光・柳玉・祝・倭錦・紅魁・紅絞が明治七大品種と称されていました。
その後、明治末には「国光」と「紅玉」が、それぞれ全りんご生産量の3割から5割を占め、
1950年代半ばまでの半世紀、二大品種として、日本りんご界に君臨しました。
生産過剰とバナナ輸入解禁
さらにみかん大増産で
「紅玉」の時代は終焉
紅玉と国光は半世紀にも及ぶ繁栄を謳歌していましたが、実際には生産量の増大による需給関係の悪化と、
少しでも早く市場に出して高く売ろうとする早もぎ(熟度が低いりんご)による悪評などで、
価格の下落が続き、二大品種の時代は終わりに近づいていました。
皮肉なことに、青森県のりんご生産量が3,437万箱の史上最高を記録した年(1963年)のバナナの輸入自由化、
1964年と1966年のみかん大豊作が、国光と紅玉小玉の価格暴落を引き起こし、
ついに1968年には「山川市場」と呼ばれる、山や川への大量廃棄が発生し、1962年に品種登録された、りんご界の救世主「ふじ」他への品種更新が一気に進むことになりました。
ここに、国光と紅玉の二大品種時代は完全に終わりを告げ、古い品種は切られ、消えていくことになります。多くの紅玉もその運命を辿りました。
一方で、小玉と着色不良と酸が強いという紅玉の欠点?を無くすための品種改良(選抜)も進み、
現在流通する、ある程度の玉サイズがあり、全面が深紅になる紅玉への更新も進み、
昔のJonathanのDNAは薄まり、正直言って、見た目は良くなっても、その紅玉らしい魅力のある味は落ちていったとも考えられます。
百年もの樹齢を重ねる
『昔ながらの紅玉』が南部の三戸町にあった!
私が訪ねた青森県三戸郡三戸町梅内小中島の船場正男さんのりんご園には、20本ほど紅玉の古木が残っています。
私が抱えられないほど太い紅玉の百年古木には、確かに最近の紅玉よりも、ずっと色が薄く、色ムラもある、小玉中心の紅玉がなっていました。
多くの地域で新しい品種への更新で伐採されたはずの紅玉が、ここには残っています。まさに幻の昔の紅玉です。
昔の紅玉を名乗る生産者は、南部地方にはいることはいますが、これだけの古木となると、ほとんど実存しないと思います。
生きている化石ではないですが、大正時代に植えられた紅玉です。
紅玉に限らず、青森の南部地域には昔からの様々な品種が残っています。
津軽のような広く水田や畑として使えるような平地が無く、大根や米の栽培に向かない地域だったため、果樹栽培くらいしか有望な農業分野がありませんでした。
さらに、中山間部が多く、作業効率が良くないので、沢山の品種を育てることで、収穫時期をずらして、農作業の分散化の必要がありました。
さらに、南部の春先はヤマセの冷害で、りんごの花芽がダメになってしまうことも多々あります。
りんごの花は品種によって、3日ずつ位に開花日がずれることから、あえてたくさんの品種を植え、ヤマセの影響をどれかの品種が受けても、様々な品種の合計収量の確保により、危険回避してきました。狭い圃場とヤマセのリスクヘッジが、南部にたくさんの品種が残っている理由です。
船場さんが昔の紅玉を守ってきた理由
“えんこの紅玉”は美味い!
流行り廃りで、紅玉が売れなくなった時期はありましたが、船場さんが昔の紅玉を切らないで残しておいたのには理由があります。
この昔の紅玉が植えられている遠藤小中島(えんどうこなかじま、略して「えんこ」)は、昔から、「えんこの紅玉は美味しい」という市場評価があって、ある程度の値段で毎年買ってくれる買い手が存在していたのが大きな理由です。つまり、多くの紅玉産地の中でも、この地域の紅玉が美味しかった証です。
寒暖差が大きく、青森の中でも果樹栽培に適した三戸町ですが、小中島はさらに小さい盆地になっていて、小中島の周りを山と馬淵川が囲むという独特の地形です。
こんな地形は美味しい果実を産む理想的な場所です。
ここからは、船場正男さんの個人的な理由ですが、船場さんはお婿さんで
「義理のお婆ちゃんが大切にしていた樹なので、たとえ価格が安くなってしまっても、儲からなくても、不作の年でも、頑張って絶やさないように、ずっと守ってきた」
最後は個人の想いで、百年古木の紅玉が今まで生き延びてきたのだと思います。
甘いだけのリンゴが好きな方にはおすすめしません!
昭和30年代生まれの日本人の舌に刻まれた「紅玉」
「ふじ」のように、たっぷりと蜜は入りませんが、この船場さんの紅玉には結構な確率で少量ですが蜜が入ります。
丸かじりするとわかりますが、果汁で手がベタベタします。
個体差はありますが、甘いだけでなく、酸があるので『甘〜い』にはなりませんが、糖度はかなりあります。色々な紅玉を食べてきましたがこのレベルの味はないです。
紅玉の糖度は14度前後なので、それなりに甘いのですが、糖酸比(※糖度を酸度で割った値で、この数値が大きいほど甘味を強く感じる)が20未満です。
ちなみに、ふじは30以上、王林だと50近いです。
偶然ですが、私とふじは1962年、同じ年に生まれました。私が子供の頃は紅玉をよく食べました。
デリシャス系も多かったし、印度リンゴもあったと思います。実際、リンゴ界の救世主と言われる「ふじ」が主力になるのは、1982年以降です。
という事は、やっぱり、私世代より年齢が上の日本人の子供の頃の舌に刻まれたリンゴの味は「ふじ」ではなく「紅玉」や「デリシャス」ということだと思います。
ポケットから紅玉一個を取り出し、真っ赤な皮ごとかじる!小ぶりでリンゴ酸が豊富な「紅玉」を毎日一個。
ちょっと格好良いし、健康の為にも良いに違いない!
リンゴの爽やかな香りを漂わせるオヤジ!良いと思います・・・・
(株)食文化 代表 萩原章史